京都と越前・若狭・小浜方面との陸路交通の要として栄えた高島の地に、戦国時代に 湖上交通の要衝として織田信長が明智光秀に築かせたのが大溝城です。琵琶湖と内湖である「乙女ヶ池」を利用した典型的な水城で「鴻湖城」とも呼ばれていました。安土城、坂本城、長浜城などとともに、琵琶湖の水運を支配する重要な城のひとつでした。 織田信長の甥、織田信澄が城主となり、水路を整備し水の恵みを巧みに利用した城下町を作りました。その後幾代か後、浅井3姉妹の次女、お初が嫁いだ名門京極家の高次が治めました。(京極高次はその後、大津城を治めることなり、「関が原の合戦」では東軍に属し戦います) 徳川幕府の時代となって「一国一城令」によって三の丸を残して廃城となり、分部光信が三の丸を「大溝陣屋」として利用し明治維新まで高島の地を治めていました。その陣屋総門は現存し、民家として使用されています。 城跡は現在、本丸天守台の石垣が残っている程度ですが、石垣の石の大きさは当時の大溝城の重要性を偲ばせます。 乙女ヶ池に集う水鳥を眺めながらお初は戦国の世に何を感じていたのでしょうか。
お江ゆかりの地を巡る
浅井3姉妹の生涯の多くの軌跡が交錯する京都近郊の近江の国、琵琶湖周辺に当時を偲ぶ
お江(ごう)は尾張の武将織田信長の妹お市の方と、北近江の武将浅井長政の子として、茶々、お初、との3姉妹の末娘として北近江小谷の地に誕生。その後戦国の時代の流れに翻弄された3姉妹は近江、尾張、京都、越前へと居を変え、さらに大阪、近江、江戸、とはなればなれとなって数奇な運命をたどることとなりました。
運命のいたずらか、その織田信長の天下統一の戦いの前に対立する立場となった浅井家は小谷城で滅亡する。 お市と3姉妹は救いだされ、尾張で織田信長の弟、信包の庇護のもとしばらくは平穏な日々を過ごすこととなる。 しかし、織田信長が明智光秀の謀反により滅ぼされた後、母であるお市の方は、織田家筆頭家老の柴田勝家と再婚し、越前「北の庄」へ母子ともに移ることとなる。さらに信長亡き後の覇権争いがまたもや3姉妹とお市の方へ悲惨な運命を運ぶこととなる。羽柴秀吉と対立した柴田勝家は賤ヶ岳に破れ、越前「北の庄」にてお市の方とともに自害しました。
その後天下は羽柴秀吉によって統一されてゆきます。お江はいくつかの変遷をへて、徳川2代将軍となる秀忠へ嫁ぎ、豊臣秀頼に嫁ぐ千姫をはじめ二男五女をもうけ徳川幕府に絶大な影響力をもつに至ります。
長女茶々は太閤秀吉の子豊臣秀頼を産み、天下分け目の戦い「関が原の合戦」から大阪城夏の陣で滅ぶまで豊臣家の存続のため尽力しました。 次女お初は、名門京極家の高次に嫁ぎ、近江高島から大津で暮らし、「関が原の合戦」後、豊臣家と徳川家の険悪な状況のなか、大阪城の姉茶々、江戸城の妹お江、の思いを代弁するように両家の和睦へ奔走しました。
スポット1:大溝城趾
車でドライブ
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ホテル琵琶レイクオーツカ
国道161号線 (約10分)
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二又の道を勝野交番方面へ左折
(約5分)
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大溝城趾
電車を利用して向かう
-
JR近江舞子駅
JR湖西線(約8分)
-
JR近江高島駅
徒歩(約5分)
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大溝城趾
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スポット2:小谷城跡(おだにじょうせき)
小谷城は、戦国時代屈指の山城で標高495mの小谷山に築かれていました。中腹よりやや上に本丸を中心として各郭が尾根に沿って高い土塁に守られる形で連なります。中丸、京極丸、小丸、山王丸など有名です。当初は小谷山山頂にある「大嶽城」が小谷城であったとも言われています。また山頂より、浅井氏や家臣団の屋敷のあった清水谷を挟んでもう一つの峰があり、そこには屋敷や主郭を守るため、いくつもの砦が築かれていました。 浅井家は北近江の守護京極氏の配下でしたが、京極氏の跡目争いに乗じて北近江の多くを支配するにいたりました。その後織田信長と同盟し、信長の妹お市を娶り、この地で有名な浅井3姉妹が誕生します。 しかし戦国時代の流れの中で織田信長と対立することとなり、いくつかの合戦ののちこの小谷城に滅ぶこととなります。 お市と娘である茶々、お初、お江の3姉妹は救出され戦国時代の終焉まで数奇な生涯をすごすこととなります。 小谷城址から輝く琵琶湖の湖面越しに京都方面を眺めると、比良山系や比叡山が遠くに霞んで見えています。その昔、お市や長政そして娘たちもこの風情を楽しむひと時もあったのでしょうか。
車でドライブ
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ホテル琵琶レイクオーツカ
国道161号線 (約45分)
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野口交差点を右折
国道303号線(約9分)
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塩津交差点を右折
国道8号線(約22分)
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速水中央交差点を左折
県道265号線(約5分)
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群上交差点を右折
国道365号線(約5分)
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小谷城跡の看板を左折
(約1分)
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小谷城跡ガイド館・戦国ガイドステーション駐車場
徒歩(約45分)
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小谷城跡
*城址近くまで車で行けますが、道が狭く対向車とのすれ違いも厳しいところもありますので注意してください。舗装が終わったところからは徒歩10分ほどですが、自然のままの山道となりますので靴など服装に考慮願います。
電車を利用して向かう
-
JR近江舞子駅
JR湖西線(約47分)
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JR北陸本線近江塩津駅
北陸本線米原経由姫路行(約16分)
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JR河毛駅
小谷山線コミュニティバス(約5分)
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小谷城址口(おだにじょうしぐち)
徒歩(約45分)
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小谷城趾
小谷城戦国歴史資料館
近くには小谷の歴史と浅井家についてくわしく知ることができる歴史資料館があります。
- 営業時間
- 9:00~17:00(最終入館16:30)
- 休館日
- 火曜(火曜が祝日の場合は翌日)、年末年始
- 入館料
- 高校生以上300円、小中学生150円、幼稚園以下無料
小谷城戦国歴史資料館(外部サイトへ移動します)
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スポット3:姉川古戦場
姉川は伊吹山地の新穂山(標高1,067m)から湖北の平野を流れ、長浜で琵琶湖へ注ぐ全長39kmの一級河川です。 戦国時代、織田信長と同盟関係にあった北近江を支配していた浅井長政が、やはり古くから誼のある越前の朝倉義景を織田信長が攻めたときから反目する関係となり、ここ姉川で決戦することとなった。 織田・徳川連合軍(2万5千)と浅井・朝倉連合軍(1万5千)が姉川を南北に挟んで布陣、 織田軍が浅井軍と、徳川家康が朝倉郡と対峙した。早朝より浅井・朝倉連合軍側より渡河し戦闘が開始され、一時織田軍はかなり押し捲られ苦戦するが徳川軍が朝倉軍を押し戻す奮戦もあり、結果として浅井・朝倉連合軍は敗れ去りました。 その後京都近辺で大津、堅田、比叡山と戦うが次第に押されてゆき、小谷城の攻防戦でまず朝倉義景が滅び、浅井長政も滅ぶ事となった。
車でドライブ
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ホテル琵琶レイクオーツカ
国道161号線 (約45分)
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野口交差点を右折
国道303号線(約9分)
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塩津交差点を右折
国道8号線(約5分)
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北陸自動車道木之本IC
県道7号線(約9分)
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長浜IC
県道37号線(約6分)
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東上板町東交差点を右折
県道243号線(約2分)
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姉川古戦場
電車を利用して向かう
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JR近江舞子駅
JR湖西線(約35分)
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JR北陸本線近江塩津駅
JR北陸本線(約25分)
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長浜駅
湖国バス(約15分)
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野村橋バス停
バス(約15分)
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姉川古戦場
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スポット4:賤ヶ岳(しずかたけ)
賤ヶ岳は琵琶湖の最北に位置し、さらに北に予呉湖を眼下に見下ろす標高422mの峻険な山で、北陸方面と京都を結ぶ要衝の地でした。 この地に繰り広げられる2日間の激戦が「賤ヶ岳の七本槍」で有名な賤ヶ岳の合戦と呼ばれています。 そもそもこの合戦のきっかけは、ほぼ中央を制覇した織田信長が明智光秀の謀反により殺害されたあとの織田家の跡目争いが元です。清洲会議で織田家の主だった武将があつまり、織田信忠の子三法師を推す羽柴秀吉と、信長の三男信孝を推す柴田勝家が対立。丹羽長秀などが賛同した三法師となりました。その後の2人の敵対は強まり、ついにこの決戦が行われることとなりました。 羽柴秀吉は越前の柴田勝家が雪で閉ざされている間に、織田信孝を降伏させ、柴田側の城を次々と攻略してゆきました。雪解けを待ちきれず勝家は進撃し、佐久間盛政を先方に秀吉側の砦を急襲し中川清秀を倒し、さらに深進撃してゆきます。遠く岐阜に進出していた秀吉本体が危機を知り、52kmの距離をわずか5時間で移動するという離れ業で戦場へ到着。大群にて襲い掛かり、柴田軍内部の裏切りもあり勝家は敗れ去ることとなる。 勝家は越前北の庄でお市の方と自害し滅びました。お市の娘、茶々、お初、お江の3姉妹は2度目の落城と救出を経験することとなりました。 賤ヶ岳へは麓からリフトで6分、徒歩10分ほど上ると山頂へつきます。急な斜面の山だけに見晴らしは抜群です。
車でドライブ
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ホテル琵琶レイクオーツカ
国道161号線 (約45分)
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野口交差点を右折
国道303号線(約9分)
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塩津交差点を右折
国道8号線(約5分)
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県道514号線との交差点を左折
県道514号線(約4分)
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賤ヶ岳
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スポット5:長浜城歴史博物館
彦根城 長浜城歴史博物館 織田信長が浅井長政を小谷城に滅ぼした後、そのときの戦功により羽柴秀吉に浅井の領地であった北近江を与えました。秀吉は小谷城を廃し、小浜といわれたこの地を信長の一字を拝し長浜と改名しました。琵琶湖の水運も考えここへ城を築くこととし、小谷城からも一部の資材を移築し築城。戦国乱世のなか北国街道と中山道の分岐点を押させる重要な役割をはたしていました。 関が原の合戦後、徳川家康の命により井伊家が「彦根城」を築城することとなり廃城となり、現在は城跡の豊公園内に「長浜城歴史博物館」として天守が再建されています。当時の追手門は長浜市内の「大通寺」の山門、裏門は「知善院」の山門として現存している。また、彦根城の天秤櫓はこの長浜城の大手門を移築したものといわれています。長浜の町中には旧北国街道沿いに趣のある家並みがならび、のんびり散策するのもお勧めです。
- 開館時間
- 9:00~17:00(最終入館 16:30)
- 入館料
- 大人410円、小学生・中学生200円
長浜城歴史博物館(外部サイトへ移動します)
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ホテル琵琶レイクオーツカ
国道161号線 (約45分)
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野口交差点を右折
国道303号線(約9分)
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塩津交差点を右折
国道8号線(約10分)
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木之本交差点を右折
国道8号線(約22分)
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森町交差点を右折
県道44号線(約6分)
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長浜歴史博物館
電車を利用して向かう
-
JR近江舞子駅
JR湖西線(約35分)
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JR北陸本線近江塩津駅
JR北陸本線(約45分)
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長浜駅
徒歩(約7分)
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長浜城歴史博物館
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スポット6:彦根城
浅井三姉妹とは直接関わりのない城ではありますが、同じ歴史の中で誕生した城としてご紹介します。 天下分け目の戦「関が原の合戦」に勝利した徳川家康の四天王の一人、井伊直政が敗れた西軍の将、石田三成の所領であった近江北東部を与えられました。その地に徳川家康の命により西国諸侯への押さえの要として直政の子、直継の代に築かれた城。琵琶湖畔の彦根山を中心に、近江の名城であった京極高次の大津城、浅井長政の小谷城、石田三成の佐和山城から天守をはじめ櫓や門を多く移築して造られました。 江戸時代、井伊家は代々この地を治め、安政の大獄で有名な井伊直弼などを輩出しています。明治維新後の廃城を免れ、現在国宝に指定された天守をはじめ多くの建造物が現存しています。城内は広く各所に櫓、出丸、庭園などがあり、また博物館も含めゆっくり全てを巡ると2時間半はかかります。桜の名所としても大変有名で、天守から満開の桜越しに望む琵琶湖は今も昔も変わらない風情なのでしょうか。
- 入園時間
- 8:30~17:00(最終入園 16:30)
- 営業日
- 年中無休
- 彦根城観覧料金
(玄宮園含) - 大人800円、小学生・中学生200円
彦根城(外部サイトへ移動します)
車でドライブ
-
ホテル琵琶レイクオーツカ
国道161号線 (約17分)
-
二又の道を左折
国道477号線(約1分)
-
真野I.C.口を左折
琵琶湖大橋有料道路・レインボーロード(約27分)
-
八代交差点を左折
県道2号線(約6分)
-
久野部交差点を右折
県道155号線(約3分)
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小篠原交差点を左折
国道8号線(約52分)
-
外町交差点を左折
県道25号線(約5分)
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彦根城
電車を利用して向かう
-
JR近江舞子駅
JR湖西線(約25分)
-
JR山科駅
JR東海道・山陰本線(約45分)
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彦根駅
徒歩(約10分)
-
彦根城
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スポット7:安土城跡
織田信長は京都を中心に天下統一への道が見えてきたときに、それまで拠点としていた岐阜城を嫡男の信忠に譲り、京都に近く陸路、水路の押さえとしての要衝の地、安土山に天下布武の象徴とした城を築くこととした。琵琶湖に面し、3方を内湖にかこまれた天然の要害、安土山を総石垣造りとし、さらに天守閣は信長ならではの独創的な建造物で、山門から144mの山頂に46mの天守閣がそびえる壮大な城でした。 しかし、完成3年後には明智光秀の謀反により信長は滅びその後の弔い合戦のさなか信長の嫡子織田信雄が城下へ放った火が類焼して天守閣まで焼失してしまった。当時から城内には摠見寺というお寺があり、400年の間この城跡を守ってきました。 現在は石垣が多く残り(2009年へかけて20年間の発掘調査により再現された)大手道がまっすぐにのびる180mの石段の先には羽柴秀吉邸跡、前田利家邸跡の石垣など多くの武将の邸宅跡が残っています。さらに黒金門の石垣に使われた石の大きさはこの城がいかに壮大であったかの証です。さらにゆくと山頂の天守閣跡の基石がしっかりと残っています。 山頂近くの元摠見寺跡地から遠く琵琶湖を望むことができます。広大な琵琶湖や眼下の城下町を眺めながら、信長は遠い異国へ夢を馳せていたのでしょうか。
- 拝観料
- 大人700円、子供200円
- 営業時間
- 8:30~17:00(最終入場16:00)
車でドライブ
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ホテル琵琶レイクオーツカ
国道161号線 (約17分)
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二又の道を左折
国道477号線(約1分)
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真野I.C.口を左折
琵琶湖大橋有料道路・レインボーロード(約27分)
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八代交差点を左折
県道2号線(約6分)
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久野部交差点を右折
県道155号線(約3分)
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小篠原交差点を左折
国道8号線(約22分)
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西生来町交差点を左折
201号線(約4分)
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安土郵便局前交差点を右折
県道201号線(約1分)
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下豊浦交差点を右折
県道2号線(約2分)
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安土城跡
電車を利用して向かう
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JR近江舞子駅
JR湖西線(約35分)
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JR山科駅
JR東海道・山陰本線(約44分)
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安土駅
徒歩(約25分)
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安土城跡
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スポット8:八幡山城跡
豊臣秀吉が天下統一をはたしたころ、実子が生まれず後継者として秀吉の姉、ともの子を養子とした関白秀次が治めた近江八幡の地に築いた城です。 標高272mの鶴翼山の山頂を中心に総石垣の戦闘用の城郭でした。城下山麓中部に秀次の館から雛壇状に家臣の居館が配されていました。まわりに八幡堀を通し城の防御用だけでなく琵琶湖との交通にも利便を測っていました。さらに築城当時、廃城となった安土城の城下町を呼び寄せ、碁盤の目のような町づくりがなされ、楽市楽座の制度を引継ぎ大変賑わったそうです。 その後、秀次が尾張の清洲城へ100万石を得て移転したあとに、浅井三姉妹のお初の嫁ぎ先の京極高次が大溝城より入城し、5年ほどで大津城へ移転するまで2万8千石で治めていました。その後、秀吉の実子秀頼が生まれることとなり、秀次が疎まれ切腹に至った時期に、関白秀次の居館であった聚楽第とともに廃止されました。 現在は山頂付近の城壁の石垣や本丸、二の丸跡などをめぐり一周することができます。各曲輪跡からは遠く、安土山や琵琶湖を眺めることができます。若くして城や城下町を立派に築いた秀次公は今でも地元近江八幡の方々から慕われているそうです。
*八幡公園など近くの駐車場から徒歩の場合30分以上かかりますので八幡山ロープウェーの利用が便利です。
八幡山ロープウェー(外部サイトへ移動します)
車でドライブ
-
ホテル琵琶レイクオーツカ
国道161号線(約17分)
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二又の道を左折
国道477号線(約1分)
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真野I.C.口を左折
琵琶湖大橋有料道路・レインボーロード(約9分)
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琵琶湖大橋東詰交差点を左折
湖岸道路 県道559号線(約17分)
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湖岸白鳥川交差点を右折
県道26号線(約3分)
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大房町交差点を左折
県道26号線(約3分)
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八幡山ロープウェー
ロープウェー(約4分)
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八幡山城趾
電車を利用して向かう
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JR近江舞子駅
JR湖西線(約25分)
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JR山科駅
JR東海道・山陰本線(約30分)
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近江八幡駅
近江八幡駅バス停近江鉄道長命寺行バス(約7分)
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八幡山ロ-プウェイ口バス停
徒歩(約5分)
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八幡山ロープウェー
ロープウェー(約4分)
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八幡山城趾
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スポット9:坂本城趾
織田信長が京都から近江方面制圧へ転戦する中、一時は同盟関係にあった北近江の浅井長政や越前の朝倉義景との攻守の要となっていた比叡山の焼き討ちが行われた。叡山の伽藍、堂塔が焼き尽くされ、また多くの人々の命が奪われました。その後信長の命により湖西近江の監視と琵琶湖の交通抑えとして、坂本の町に明智光秀が築いた城が坂本城です。琵琶湖へ直に漕ぎ出すことができる典型的な水城で、後に築かれる大溝城、膳所城、大津城へと引き継がれてゆく城郭だったようです。大天守、小天守をもつ豪壮華麗な姿は、宣教師ルイス・フロイスが安土城に次ぐ美しい城と讃えたそうです。 明智光秀は信長軍団の1,2位を争うまで出世し後に亀山城も納めることとなります。安土城での徳川家康の接待役から外され羽柴秀吉の中国攻めの与力を命じられたことが主因か? 事実はわかりませんが、有名な本能寺の変で織田信長、信忠を滅ぼし短い天下を取りました。しかし羽柴秀吉のあまりにも急な進撃に敗れ去り、坂本城も焼けて落城しました。 その後、秀吉により再建されますが、やがて大津の地が京都への抑えとして重要となり廃城となり、多くの資材は大津城築城に使われました。この大津城も浅井三姉妹のお初の嫁ぎ先の京極高次が天下分け目の合戦で東軍側として篭城しました。 現在の坂本城は坂本公園の水際に僅かな船着場跡の石垣が一部残っている程度で城の構築跡はほとんど琵琶湖の中で、琵琶湖水量が極端に減ったとき顔を出すことがあるようです。 当時の城門が比叡山山麓の西教寺、聖衆院来迎寺の総門として残っています。この西教寺には明智家郎党の墓があります。 この坂本の町では善政を施した明智光秀が豊臣秀吉より人気が高いそうです。
車でドライブ
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ホテル琵琶レイクオーツカ
国道161号線(約30分)
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下坂本4丁目交差点を左折
250m先右折後240m直進(約2分)
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坂本城趾
電車を利用して向かう
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JR近江舞子駅
JR湖西線(約25分)
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JR比叡山坂本駅
徒歩(約10分)
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坂本城趾
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- 季節や曜日により所要時間が異なります。詳しくは各機関のホームページなどでお調べください。
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